
「お茶はじめて物語」語る上でははずせない人物のお話
裸宗の伝来と日本最初の茶畑
栄西と禅宗。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
今から約八百年前西暦1191(建久二)年7月、一隻の中国の貿易船が古江湾の葦浦に着きました。この船には中国の進んだ仏教を勉強するため、四年前に中国(宋)にわたった「栄西」というえらい僧侶(お坊さん)が乗っていました。
栄西は、平安時代の終わりごろ(1141年)、岡山県の吉備津宮の神官の子として生まれ、名前を千寿丸と言いました。八歳のころ僧侶になることを決心し、近くのお寺で修行を始めました。十三歳のとき、京都の比叡山延暦寺に入り、髪をそり、名を栄西と改め、本格的に仏教の勉強を始めました。修行を重ねるうち、栄西は、昔のえらい僧侶にならって中国(宋)へ留学したいと考えるようになりました。
1168(仁安三)年四月、二十八歳になった栄西は福岡県の博多から貿易船に乗り込み、約一週間かかって無事、中国に到着しました。そして、当時、中国でもっとも学問のさかんな寺院があった天台山に行き、一生懸命に仏教の勉強をしました。その年の九月には、一通りの勉強を終え、ありがたいお経本を六十巻もたずさえて帰国しました。
日本へ帰った栄西は、中国留学をはたした僧侶としてたいへん尊敬され、天皇をはじめ多くの貴族たちの信頼を得ました。ある日照りの続いた年、天皇の命令で、都の神泉苑で雨乞いの祈祷を行ったところ、たちまち雨が降り出し、草木の葉の上にできた水滴のすべてに栄西の姿が映るといいう奇跡が起こりました。天皇はこれを見てたいへん感動し、栄西に「葉上」といいう号と、僧侶の最高の位を表す紫色の衣を与えましたl。
一一八七(文治三)年四月、今度は、中国からさらに仏教の生まれたインドへ行こうと決心した栄西は、再び中国に渡りました。しかし、戦乱などのためインドへ行くことができませんでした。栄西は、再び天台山へ行き、虚庵懐敞というえらい僧侶のもとで、当時、中国でもっともさかんだった臨済宗黄竜派の「禅」を修めることにしました。禅(禅宗)とは、お経の勉強だけでなく、座禅を組み、静に瞑想することで悟りを得ようとする仏教の宗はのことです。
修行の合間、栄西は中国各地を訪ね歩き、見聞を広めるとともに、古い寺院の修理に多額の寄付をしたり、雨乞いや、伝染病の流行をとどめるために祈祷を行ったりしました。ときの中国の皇帝は、その行為に感謝し、栄西に「千光大法師」という号を授けました。四年間にも及ぶ修行の結果、栄西はついに臨済宗黄竜派の正統な継承者として認められ、その教えを日本に伝えるため帰国することになりました。
一一九一(建久二)年七月、中国の貿易船に乗り込んだ栄西は、平戸島の古江湾にある葦浦に到着しました。葦浦についた栄西は、戸部侍郎清貫といいう人物に迎えられ、木引にお堂を建ててもらい、しばらく平戸に滞在することになりました。その年の八月、栄西は「冨春庵」と名づけたお堂で、十数名の弟子たちとともに、日本で初めて禅宗の規則にのっとった座禅修行の儀式をおこないました。そして、冨春庵は日本最初の禅宗の専門同僚となり、始めはわずかな人数であったものが、程なくお堂からあふれるほどの人々が集まるようになりました。栄西は数ヶ月平戸に滞在し、九州・山口の各地に寺院を建立し、座禅を行い、禅宗の教えを広めました。栄西が伝えた禅宗は多くの人々に関心を持って迎えられ、受け入れられていったのです。
栄西の布教活動は、朝廷や貴族だけではなく、鎌倉幕府の保護も受け、一二〇〇(正治二)年、北条政子の援助を受けて鎌倉に寿福寺を建て、その二年後には、二代将軍源頼家の援助によって京都に建仁寺を建立しました。 こうして栄西の伝えた禅宗は、朝廷と幕府の保護を受け、日本全国に広まっていったのです。
一二一五(建保三)年六月五日、幼くして僧侶になることを決心し、二度も中国に留学して多くの学問を習得するとともに臨済宗黄竜派の禅を継承して帰国し、日本での禅宗の確立に度量した栄西は、鎌倉の寿福寺において七十五歳の生涯を終えました。その後遺体は京都に運ばれ七月五日建仁寺で法要が営まれました。
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冨春庵跡と座禅石・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・冨春庵園・・・・・・・・・・・・・冨春庵跡にある座禅石
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・当館より車で20分
平戸市木引町に「龍灯山千光寺」というちいさなお寺があります。このお寺は、栄西が二度目の中国中学から帰国したときに滞在し、日本で初めて臨済宗の座禅を行った冨春庵の流れをくむお寺です。栄西が滞在した冨春庵は、現在の千光寺より南側の少し下ったところにありました。栄西が平戸を去った後、冨春庵は後継者がなくいつしか廃墟のようになっていましたが、一六九五(元禄八)年、時の藩主松浦棟から維持料をもらって復興し、名前も「千光寺」と変わり、さらに一七一三(正徳三)年、現在の場所にお堂が建立され、今にいたっています。
「冨春」の二文字は、栄西が中国留学中に訪れた地名からとったといわれています。中国の杭州湾に注ぐ銭塘江という川は「冨春江」ともよばれ、元の時代の水墨画にも描かれているほど景色の美しいところでした。帰国後、木引にお堂を建ててもらった栄西は、そこから見た古江湾のながめが、冨春江が注ぐ抗州湾の景色とよく似ていたので、お堂を冨春庵と名づけたのです。
冨春庵跡地の東端に栄西が座禅を組んだ座禅石があります。この石を運ぶとき栄西はかけ声として自分の名前を呼ばせたそうです。京都では栄西を「ようさい」ともよびます。物を運ぶときの「えいさ、えいさ」、「よいさ、よいさ」のかけ声はこれから始まったといわれています。また、栄西がこの石で座禅を組んでいると龍神が現れ、近くの松の枝に灯りをつけてくれたといわれています。その松は「龍灯の松」と呼ばれていましたが、太平洋戦争中に枯れてしまい、わずかに残った根株が歴史の名残をとどめています。この龍灯の松と、栄西が中国の皇帝から授けられた「千光大法師」の号は、「龍灯山千光寺」の名前の由来にもなっています。
古江湾の沿岸には「梅崎」と「薄香」という地名がありますが、これには次のような言い伝えがあります。
むかし、栄西禅師が中国から帰国したとき、お茶の種といっしょに中国西方の梅を持ち帰り、冨春庵の近くに植えました。その梅がひろがってこの地をいつのころからか梅崎と呼ぶようになりました。また、薄香はもと「黄昏の浦」といっていましたが、春先になると梅崎の梅の花の香りがかすかに匂うところから、いつしか薄香とよばれるようになったと言われています。
栄西は中国から帰国するとき、「梅干」をはじめて日本に伝えたともいわれるので、冨春庵の近くに梅を植えたというのも事実かもしれません。
栄西とお茶
お茶は、奈良・平安時代の遣隋使や遣唐使によって中国文化とともに日本に伝えられたといわれていますが、そのころ伝えられたお茶は、朝廷の特別な法会の時のもてなしや薬用として飲まれ、天皇や貴族など上流社会の人々しか口に出来ないものでした。その後、遣唐使の廃止とともに、中国文化の一つとしてのお茶はおとろえてきました。
その後、鎌倉時代の初め、中国から新しい製茶と喫茶の方法、そして優良な茶の品種を日本に伝え、日本茶道史の新しいページを開いたのが栄西です。
栄西は、一度目の中国中学のとき、天台山や育王山にある寺院に参拝しましたが、その途中の茶店で休み、初めてお茶を飲んだところ、心身ともにさわやかになり、疲れがとれたといっています。
当時、中国の禅宗寺院では抹茶を飲む習慣が定着していました。これは座禅するときの眠気を防ぐために、お茶に含まれるカフェインの効用を考えて始まったものと思われますが、規則の厳しい禅宗寺院ではこの服用をふまえて、礼儀としての喫茶の方法が定められたようです。
栄西は二度目の留学で禅を学んだとき、同時にお茶の種とともに日本に伝えたのです。 栄西は、平戸木引の冨春庵の裏山にお茶の種をまき、製茶や喫茶の方法を人々に伝えました。この日本最初の茶畑は冨春庵にちなんで「冨春園」とよばれています。その後、新しい製茶と喫茶の方法は禅宗の広まりとともに全国に広まり、喫茶(抹茶)の風習も一般社会へと広く伝わってきました。また、一二一四(建保二)年には、鎌倉幕府三代将軍源実朝に抹茶をすすめるとともに、喫茶の効用をみずからまとめた「『喫茶養生記』二巻を贈っています。
江戸時代の初め、平戸にオランダ商館がつくられ、オランダ人が平戸でお茶を仕入れ、ヨーロッパに運んだといいう記録が残っています。栄西によって中国から平戸に伝わったお茶が日本で育ち、その約四〇〇年後には平戸からヨーロッパに輸出されたのです。歴史のスケールの大きさを感じるできごとの一つです。
| 第一回 はじめて物語 いかがでしたでしょうか? 当館が仕入れをしているお茶屋さん「有香製茶」にも日本最初の茶畑にちなんだ商品をおいてあります。 |
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